実存主義における不安と孤独:キルケゴール哲学を手がかりに文学作品を読み解く
はじめに
本サイト「文学・哲学で読む孤独」では、実存主義哲学や文学・芸術作品を通して、人間存在の根源的な孤独を様々な角度から考察しています。今回は、実存主義哲学における最も重要な概念の一つである「不安」に焦点を当て、それがどのように人間の孤独と結びつくのかを探求します。
不安は、多くの人が日常的に経験する感情です。しかし、実存主義哲学が論じる「不安」は、単なる心理的な動揺や心配事とは質的に異なります。それは、人間の自由な選択や可能性、そして存在そのものに根ざした、より深い、根源的な感情です。本稿では、実存主義の先駆者であるセーレン・キルケゴールの哲学を手がかりにこの「不安」概念を解説し、その不安がなぜ人間の孤独と不可分であるのかを考察します。さらに、フランツ・カフカの『変身』やフョードル・ドストエフスキーの『罪と罰』といった文学作品を取り上げ、実存主義的な不安と孤独がこれらの作品でどのように表現されているのかを具体的に分析します。この記事を通じて、読者の皆様が実存主義哲学への理解を深めるとともに、文学作品に描かれた人間の内面、特に不安と孤独というテーマについて新たな視点を得て、今後の学習や探求に活かしていただけることを目指します。
実存主義における「不安」概念:キルケゴールを手がかりに
実存主義哲学において「不安(Angst)」は、人間が自己の存在、自由、可能性、そして無と向き合う際に生じる根源的な感情として位置づけられます。特に、デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールは、その主著の一つである『不安の概念』(原題直訳:『不安の概念についての単純な熟慮、罪の教義に帰するべき心理学的向きつけ』)において、この概念を深く掘り下げました。
キルケゴールによれば、不安は単なる恐怖(Furcht)とは異なります。恐怖には必ず対象があります。例えば、暗闇が怖い、試験に落ちるのが怖いといったように、何らかの特定の原因や対象が存在します。これに対し、不安は対象を持たない、あるいは対象が「無」であるような状態に関連しています。不安は、人間が持つ「自由」と「可能性」から生じるとキルケゴールは考えました。
人間は自由な存在であり、常に無数の可能性の中から一つを選択し、自己を形成していかなければなりません。しかし、この無限の可能性は、同時に「無」へと転落する可能性も孕んでいます。アダムが禁断の果実を食べる前の「無垢」な状態において、「禁令によって喚起された自由の可能性」として経験されたのが不安であるとキルケゴールは分析します。禁令は、アダムに「食べるか食べないか」という自由な選択の可能性を意識させました。そして、どちらを選んでもよいという「できること」それ自体が、まだ具体的な対象を持たない不安を生み出したのです。
この不安は、人間が自己の自由と可能性に直面する際に避けられないものです。自分が何者であるか、何になるかという選択は、他者や社会の規定によってではなく、自分自身が行わなければなりません。この自己決定の重さ、無限の可能性という「めまい」、そして間違った選択をするかもしれないという恐れ(ただし、その恐れもまた対象不定の不安として現れる)が、根源的な不安を呼び起こします。
不安と孤独の結びつき
では、この実存主義的な不安は、どのように孤独と結びつくのでしょうか。
第一に、不安は人間が自己自身と深く向き合うことを余儀なくさせます。対象を持たない不安は、外部の何かから逃れることで解消できるものではありません。不安を感じる主体は、自らの内面に引きこもざるを得なくなります。この内面への沈潜は、自己の存在や自由、可能性といった根源的な問いに一人で向き合うプロセスであり、必然的に他者との距離を生み、ある種の孤独感を深めます。
第二に、自由な選択に伴う不安は、人間の「個」としての孤立を際立たせます。実存主義は、人間はまず「実存」し、その後に自己の本質を形成していくと主張します。この自己形成のプロセスは、他者や集合体に埋没することなく、自分自身の選択によって行われるべきです。しかし、自己の責任において自由に選択するという行為は、究極的には誰とも代わることができない、自分一人で行わなければならない行為です。この自己責任と自由の重さが生む不安は、人間が「他でもないこの私」として、世界にただ一人で立っているという孤独な状況を痛感させます。
第三に、キルケゴールが不安を「罪の可能性」と結びつけたように、不安は人間の限界性や不完全性を露呈させます。人間は完全に自己をコントロールすることも、すべての可能性を思い通りに実現することもできません。この存在の限界に直面することは、自己の無力感や疎外感を伴い、深淵な孤独感につながります。人間は、自己の限界や不完全さを抱えたまま、不安のうちに自己を形成していくしかない存在なのです。
このように、実存主義における不安は、人間の自由、可能性、自己責任、限界性といった存在の根源的な構造から発生し、それが自己との向き合い、個としての孤立、存在の不完全さといった形で、人間の孤独感を深める要因となるのです。
文学作品における不安と孤独の表現
実存主義的な不安と孤独は、多くの文学作品において主題として、あるいは重要なモチーフとして描かれています。ここでは、カフカの『変身』とドストエフスキーの『罪と罰』を例に、その表現を分析します。
フランツ・カフカ『変身』にみる不条理と不安、そして孤独
フランツ・カフカの短編小説『変身』は、ある朝突然、巨大な毒虫に変身してしまった主人公グレゴール・ザムザの体験を描いています。この変身は、理由も原因も明示されない、まさに「不条理」そのものです。
グレゴールは、変身した直後から激しい不安に襲われます。それは、なぜ変身したのか、これからどうなるのか、という状況への戸惑いだけでなく、自己の身体、そして自己そのものが全く異なるものになってしまったことに対する根源的な不安です。彼はもはや、これまで通りの生活を送ることも、人間として他者と関わることもできなくなります。自己の同一性が根底から揺るがされ、自分が何者であるか分からなくなるという不安は、キルケゴール的な「自己の可能性の喪失」「無」への直面と深く関連していると言えるでしょう。
変身後のグレゴールは、家族からも次第に疎外されていきます。最初は同情や戸惑いを見せていた家族も、彼の異形を受け入れられず、やがて彼を部屋に閉じ込め、存在を疎ましく思うようになります。かつては一家の経済を支える大黒柱であったにもかかわらず、彼は完全に役立たずと見なされ、自己の価値や居場所を失います。この家族からの物理的・精神的な隔絶は、グレゴールに凄まじい孤独をもたらします。
『変身』におけるグレゴールの不安と孤独は、実存主義的な視点から解釈可能です。彼の変身は、人間がいつ何時、理不尽な状況に直面し、自己の基盤が崩壊するかもしれないという不安を象徴していると捉えられます。また、社会や他者との関係性の中でしか自己を確立できないと信じていた人間が、その関係性を断ち切られたときに直面する自己の空虚さ、そしてそこから生じる孤独を描いているとも言えます。グレゴールは、自己の異形と向き合い、誰にも理解されず、ただ一人(一匹)でその存在の不条理と不安に耐えることを強いられます。彼の最期は、この極限の不安と孤独の中でひっそりと訪れるのです。
フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』にみる自由と責任、そして孤独
フョードル・ドストエフスキーの長編小説『罪と罰』は、貧困に苦しむ元大学生ラスコーリニコフが、一つの思想(「非凡人」には凡人を超えた行為、例えば殺人が許されるという思想)に基づき、金貸しの老婆を殺害する物語です。この作品は、人間の自由、選択、罪、罰、そしてそれらに伴う不安と孤独を深く描いています。
ラスコーリニコフは、犯行前、そして特に犯行後に激しい精神的な苦悩と不安に苛まれます。彼の不安は、カフカの主人公のように外部からの不条理によって引き起こされるのではなく、彼自身の自由な「選択」とその「責任」によって生じます。彼は自らの思想に基づき、理性的に殺人を計画・実行しますが、その行為は彼を予想もしなかった精神的な重圧と不安へと追いやります。
犯行後、ラスコーリニコフは極度の緊張と不安の中で生活します。彼は周囲の人々(家族、友人、警察、そして娼婦ソーニャ)に対して、自らの内面を隠し、真実を打ち明けられずにいます。この秘密は、彼を他者から深く隔絶し、自己の内面に閉じ込め、強烈な孤独感をもたらします。彼は人々と正常な関係を結ぶことができなくなり、自分自身が社会から切り離された「異物」であるかのように感じます。
ドストエフスキーは、ラスコーリニコフの精神的な葛藤を通して、実存主義的なテーマを描き出しています。ラスコーリニコフは、自己の思想(自由な選択)に基づいて行動した結果、その行為の責任を一人で引き受けざるを得なくなります。この責任の重さが、彼を不安に陥れ、他者との繋がりを断ち切る孤独を生み出すのです。彼の苦悩は、単なる罪悪感だけでなく、自らの選択によって自己が根本的に変化してしまったこと、そしてその変化によって世界の中でただ一人、この罪と向き合わなければならないという、存在論的な孤独に由来しています。最終的に彼がソーニャに罪を告白し、シベリアでの労働によって救済へと向かう過程は、自己の罪と向き合い、孤独を乗り越えようとする人間の試みとして解釈することも可能です。
まとめ:不安が照らし出す孤独の様相
本稿では、実存主義哲学における「不安」という概念が、いかに人間の孤独と深く結びついているのかを、キルケゴールの哲学を手がかりに考察しました。そして、カフカの『変身』とドストエフスキーの『罪と罰』という二つの文学作品を取り上げ、実存主義的な不安と孤独が異なる形でどのように描かれているのかを分析しました。
キルケゴールが論じた対象を持たない根源的な不安は、人間の自由、可能性、自己責任といった存在の構造から生じ、自己との孤独な対決、個としての孤立、そして存在の限界性への直面といった形で、人間の孤独感を深める要因となります。
カフカの『変身』では、不条理な状況下で自己の同一性が崩壊する不安が、他者からの物理的・精神的な疎外という形で孤独として現れていました。一方、ドストエフスキーの『罪と罰』では、自己の自由な選択とそれに伴う責任の重さから生じる不安が、罪の秘密による他者との断絶、そして存在論的な孤立としての孤独を鮮やかに描き出していました。
これらの作品が示すように、実存主義的な不安は、孤独というテーマを語る上で欠かせない概念です。不安は、人間が自己の存在のあり方や他者との関係性について深く問い直すきっかけを与え、孤独の様々な様相を私たちに示してくれます。哲学的な概念を文学作品を通して読み解くことで、抽象的な議論が具体的な人間の苦悩や感情として実感され、より深い理解につながります。
実存主義哲学と文学作品の探求は、私たち自身の内面にある不安や孤独と向き合うための重要な手がかりを提供してくれます。今後、他の哲学者や作品、芸術分野にも視野を広げ、このテーマをさらに深めていくことも有益でしょう。